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ベルの花が鳴く頃、モリガン区の雪も少し解け始める。
雪原から顔を出した青白いベルの花は、リンリンと鳴いて春を告げるのだ。
そんな北の果てに不穏な噂が流れていた。
「王都じゃ余計に死人が出たってさ」
「ここじゃ当たり前だが、去年は寒かったからねぇ」
「何でも王都じゃ病で死んだ者は、教会で死体を燃やすんだと」
「罪も犯してないのに病で苦しんだ挙句、体を焼かれるなんて酷い話じゃないか」
「王様も教会には強く言えないんだろうさ」
「サンノ国から来られた王妃様は、まだご懐妊されねぇのかねぇ」
「そりゃ、あんた、王妃様はまだ子供だろ?」
「いやでも、王妃様はΩなんだろ?」
「そんなもんかい? Ωなんて希少すぎて……ねぇ? オルタナ」
祖母が残した店で、暇を持て余した主婦たちがオルタナへと視線を寄こした。
「……さぁ? 十二ならまだかもね」
「じゃあ、一体いつ発情するんだい?」
「まぁ……個人差あるらしいけど、もうすぐじゃない?」
「じゃあ、何であんた発情しないんだい? もう十八だろ?」
「……僕が知りたいよ」
オルタナはカウンターの中から、そう呟いた。
下世話な話も、主婦に掛かれば日常会話だ。
「何だって? でもじゃあ、お世継ぎが出来るのはもっと先だね」
去年、サンノ国から嫁いで王妃となられたラチア妃は、若干十一歳でレイモンド王の正妃となられた。
二十も年の離れた幼い姫だが、運命の番として迎え入れられたのだ。
御輿入れの際には、王都は昼も夜もない程の大騒ぎだったとか。
雪深いこの地でも、ご成婚でお祭り騒ぎだったのはちょうど一年程前だ。
元は国だった程広いこのモリガン区では、一年の殆どが雪に覆われている。
過酷な環境の上、折り合いの悪い隣国との国境がある。
その為、軍の大きな要塞があり、モリガン国防軍が日夜国境を防衛している。
「ところで、おばちゃんら、今日は何か入用?」
「あ、そうそう。旦那の腰痛が酷くてねぇ。何かないかい?」
「私は孫の寝つきが悪くて。
「じゃあ、コレと……コレかな」
オルタナは小瓶に入ったスパイスと、シロップを差し出した。
「助かるよ、オルタナ。薬は高くて買えないし、あんたの
「胡椒は小匙程度。シロップは二滴で十分だから」
「ありがとう。これで今晩は嫁もゆっくり眠れるだろうさ」
「ホント。王様が薬師を増やすって話は、一体どうなっちまったのかね」
「王様は若くて可愛いお姫様に夢中なんじゃないのかい」
「なのにお世継ぎが出来ないんじゃ、話になんないわね。はははっ」
忙しなく姦しい主婦達は、そう言って店を出る。
彼女達の辞書に“不敬罪”と言う文字はない。
「まいど……」
オルタナは煩いおばちゃん連中の背中を見ながら、ふっと溜息をついた。
Ωでありながら未だ発情した事のない特異な体質。
稀少なΩに生まれたのに妊娠する可能性がないと言う無価値な物だ。
発情しない分生活はしやすいし、高い抑制剤を必要としない。
βと変わらない自身の体を疎ましく思った事は無い。
ただΩなのに――と周りから揶揄される事が疎ましい。
こんな事ならβとして生まれて来た方が、何倍も楽だっただろう。
Ωは容姿が女性っぽく、体つきも華奢になりやすい。
ちゃんと発情するΩは、繰り返す発情期と抑制剤の過剰摂取で短命な者も多いと聞く。
銀糸の髪に雪の様に白い肌を持ったオルタナは、近所の子供達からですら“出来損ないΩ”とバカにされている程だ。
だけどそれを気にした所で、発情するわけでもない。
発情したらしたで、身の危険が増えるのは当然の上、生活も今以上に苦しくなる。
祖母が残した香辛料の専門店で慎ましやかに暮らして行けるなら、発情なんて来なくて良い。
オルタナは常々そう自分に言い聞かせていた。
馬の蹄の音がした。
オルタナは、首を傾げる。
雪が解けたとは言え、この辺りでは足の太い赤鹿が主流で、馬に乗る人なんていない。
心なしか店の前が騒がしい気もして、嫌な予感が過る。
「ちょっと籠る! 開けないでね!」「ちょ、オーリィ……」 馬車の中でも無言のまま帰って来て、公爵も様子を伺っているような雰囲気だったが、そう言い捨ててオルタナはクローゼットの中に籠城したのだ。 公爵の高そうな服が隙間なく並べてあり、あの花の様な香りが漂うその狭くて暗いクローゼットの中は、案外落ち着く場所だった。 夜会に出たままの服装で潜り込んだから、手探りで装飾品の類を外して膝を抱えて座り込み「ふぅ――……」と息を長めに吐いた。 おねだりしないといけないのに、こんな風に勢い任せに立て籠もって、最悪公爵を怒らせてしまうかもしれない。 それでも「溜息をつきたくなる事」くらいは分かって欲しかった。 何でもかんでも自分で思い描いた通りに事を進めてしまう公爵に、隣を歩かせて欲しいなんて、我儘なのだろうか。 庇護されるだけの豚――そう言ったナタリスの言葉がチラついた。 モリガン大佐やラカンの増強剤の事も公爵と話さなければならない。 その上、大公妃とのネロ区視察は三日後だ。 こんな所で膝を抱えている暇はない。 けれど、オルタナにはこの儘ならない感情を整理する時間が必要だった。 そうでなければまた、一人で森へ飛び出してしまいたくなる。 そうして一人薄暗いクローゼットの中で延々と思考を巡らせている内に、いつの間にか落ちていたらしい。 扉の外は物音ひとつしないし、人の気配も感じられない。 公爵は流石に諦めて、放置する事にしたのだろう。「着替えないとな……」 そう独り言を呟いて恐る恐るクローゼットの扉を開けてみる。 居ないと分かっていても、用心するに越したことは無い。 ほんの僅か扉を開けた。 その隙間から見えたのは、クローゼットの向かいにある大きな寝台の縁に腰かけた公爵だった。 居るんじゃん――――!!
「それなら、私が。最近、ラカンの元密偵に伝手が出来たので」 そう言ったのはミレーだった。 確かに、アラベルなら用意出来そうだ。「でもミレー、親父さん達は今、別の仕事に取り掛かってるんでしょ?」「……まぁ、そこは何とかします」「そう……」 そのミレーのやり取りを見て、王妃は頬を膨らませてこう言った。「ミレー中尉ばっかりズルいわ」「え?」「オルティは私の友達なのに、私の事は愛称でも呼んでくれないし、未だに敬語なのよ? ミレー中尉だけズルい!」「いやぁ……ラチア様、それは……」 オルタナはその王妃の拗ねっぷりに、これが高等技術“スネル”か……と感心した。 とは言え、王妃相手に愛称呼びはスネルより更にハードルが高い。「二人だけの時は良いでしょ? それもダメ?」「うぇっ⁉」「だって私、オルティ以外に友達いないんだもん」「……」 それはズルいぞ、王妃様。 困ってミレーの方を見遣ると、こうなると分かっていた様な顔でウインクされた。「……じゃあ、二人の時だけ」「本当っ? 約束よ?」「わ、分かった……です」「んもぅっ!」「き、急には無理……だから、許して……ラ、ラティ」「ふふ、良いわ。ありがと、オルティ」 嬉しそうに笑う王妃は、まるでただの十二歳の少女に見える。 そう見えてしまうと、焦げ茶色の良く似合っていると思っていた美しいドレスも、聊か背伸びした様に見えて来るから不思議だ。 この時オルタナは、あれだけ「得策じゃない」と言われていたのに、無駄な意地を張る事になるとは露知らず、煌びやかな夜が更けて行った。◇◇◇ オルタ
あからさまに焦った顔をして見せたノエルに、王妃は満面の笑みを見せた。「ルアド・モリガンの状況を知りたいわ」「えぇ――……それは守秘義務がありまして……」「そうね、少佐が王妃に話したとしたら処罰を受けるでしょうけど……ミレー中尉との会話を偶然何者かが聞いてしまったのなら、出所不詳で誤魔化せる」「えぇ⁉ まぁ、良いですけど」 いいんかい。 オルタナは危うくそう突っ込みそうになった。「おい、ミレー。ルアドの様子はやはりおかしいらしいぞ」 急に始まった寸劇もどきに、ミレーは慌てて答える。「お、おかしいって?」「痛みも感じてない上、正気を保っているとは到底思えないらしい」「特警預かりになったのに、正気を保っている方がおかしいでしょ」「薬物中毒じゃないかと、誰かが言ってた様な……」「えぇ⁉ 何の?」「あー、えー、それが分からないって話らしい」「こ、困ったわねぇ……」 ノエルとミレーは凄くカッコいいのに、酷い茶番だ。 余りの酷さに王妃と顔を見合わせて噴き出した。「「ぷっ……」」 ノエルとミレーは二人共恥ずかしそうに顔を背けている。「なるほど。そう言う事でしたか」「ラチア様? そう言う事、とは?」「ずっと不思議だったの。ルアドが口を割らない事もそうだけど、あの体格が異様で……」「体格? モリガン大佐は昔から結構大きかったですけど……」「でも、モリガン伯爵は&alph
「えぇ?」「自分を殺して大人の事情に付き合ってたら、ロクでもない事になるわ」「ロクでもない事……」「あ、その……オルティは私よりお兄さんで、子供じゃないかもしれないけれど……大体高位貴族の大人って自分の思い通りに事が運ぶと思ってる」「はぁ……」 オルタナは王妃の“お兄さん”という言葉に驚いた。 年齢はともかく同等かそれ以下だと見下しても良い権力をお持ちなのに。「子供は何でも自分達の言う事を聞くと思っている」「まぁ、そうですね。逆らえる気もしませんけど……」「それに、ヴィンス相手じゃ喧嘩するのは分が悪いわ」「ラチア様は王陛下と喧嘩なさるのですか?」「喧嘩……と言うか、一方的に私が怒っている事が多いわね」「でも、仲良さそうに見えますよ」「うふ、愛してるもの」「おぉ……」 堂々とそう言える王妃が、キラカの灯でより幻想的に美しく見える。 オルタナは自分のグラグラと動く弱い心を確める様に、胸に手を当てた。 公爵が子を産める番を持てと言われるのは、至極当然の事。 でもそれに覚悟が出来ていなかったのは、公爵の“唯一の番”という言葉を安易に丸飲みしていた自分のせいだ。 これから運命の番として、誰か他のΩの子を抱く公爵を寛容に許し、サリバン公爵を支える人生が待っている。 でも、それが嫌だと言って離れていく事も出来ない。 苦しくても、離れるなんて無理だ。 だって、愛しているもの。「我儘な王妃に手を焼いている王様。そう言う筋書きなの」「筋書き……?」「レイって本当はもっと優しい人。でも、優しいだけじゃ国王は務まらないでしょ。だから私が我儘を言って、それを仕方なく許すって言う茶番?」「国政が茶番?」「私が矢面に立つことでレイを守れるなら、それで良い。私はもうすぐ十三歳になるけれど、子供だと侮る者は
大公妃に加えて王妃まで一緒に行くとなれば、危険度が釣り上がる。 どんなに気が強く凛としている王妃でも、まだ十二の少女で、Ωだ。 もしも、何か大事になる様な事があれば、自分一人では対処出来ない。 あぁ、でも、護衛はついて来るはず――。 そのオルタナの心境を聞いていたかのように、ケルメスが口を挟む。「王妃様。大聖堂には抑制剤関連の機密も多くございます。銀の君の視察には、こちらで護衛を用意します故、従者殿はお連れにならぬよう」「分かっていますとも」 とんでもない事になった。 大公妃と自分だけなら自分の身をどうにか守れれば良い。 教会が大金を落とす大公妃をどうこうする確率は無いに等しいからだ。 それに、今回の夜会は大聖堂への潜入計画の一旦を担っている。 その潜入計画の陽動の為にオルタナがケルメスを誑し込み、魔女ドーラに会わせて欲しいと嘆願し、表から堂々と入る計画だった。 そこに助っ人である大公妃が現れ、運良く視察の話が出た為に便乗する事が出来ただけの事。 いつもならこんな時に我先に口を出して来そうなウケイの姿が見当たらない。 先生、居ないのかよ! 出番でしょ! オルタナは胸中で一人突っ込みしながら、思案する。 王妃も潜入計画を知っているはず。 何故、そんな危険を冒して正面から行こうと言うのか。 オルタナはまだ良く理解出来ないまま、場の状況を見守る事しか出来ない。 大公妃は閉じていた扇子を広げて、口元に翳し「私はそろそろ」と休みたい素振りを見せ、フロアの中央から退席した。「せっかくの王陛下のお誕生祭です。気を取り直して、楽しみましょう」 振り返った王妃がそう言って、こちらを見る。 後ろに控えていたミレーから「ダンスにお誘いして下さい」と小声で囁かれ、危うく「はぁ?」と返
「銀の君の折り紙付きならばサリバン家も安泰ですな、公爵様」「えぇ、そうですね。ドヴァンニ殿」「健常なΩを早々に見つけられませ。何なら私がご紹介致しましょうか?」「ケルメス、婚約したばかりの二人の門出に不躾ですよ」「これは失礼、銀の君。年寄りは生き急いで申し訳ないですな。銀の君は大聖堂の視察にも来て頂けるとか。またその時に、ゆっくりとお話出来れば……」 国王でさえ大聖堂への訪問を渋る教会が、大公妃の視察を断らない理由――それが多額の支援金だ。 慈善事業家としての大公妃は、母国の孤児院に多くの支援と寄付を続けており、教会の大聖堂があるネロ区もその恩恵を受けている。 だから断らないと言うより、断れないと言う方が正しい。「あぁ、そうですね。オルタナの御婆様にもお会いしたい所です」「あぁそれなら、君も会いに来られますか? 御婆様に」 掛かった――――。「宜しいのですか? 私がご一緒しても……」 母がどんな風に笑う人なのか記憶はないが、オルタナは出来得る限り優雅に口角を上げ、ジッとケルメスの視線を捕らえる。 この爺を落とせば、大聖堂へ行けるのだ。 媚びも世辞も惜しむつもりはない。「十年以上会ってないのでしょう? マダムの視察の合間に面会なさると宜しいかと」「ありがとうございます! 限られた者しか入れぬ大聖堂に入れるなど夢の様です。大司教様の寛大なお心に、感謝致します!」 オルタナはそう言ってケルメスの手を両手で握りしめた。 本来なら触りたくもないが、ミレーが言うにはケルメスは稚児趣味の傾向があるらしく、小柄な少年をいつも侍らせているらしい。 多分、間違いなくこの容姿と体格がクリーンヒットする。 と、ミレーは砂を吐くような顔で言っていた。「おっほっほ、公爵様が君を番に望む気持ちが分かる様な気がしますね」
アウルム班が出発し、王都アルメリアに残った公爵達も情報収集に奔走し、教会側への潜入の為、あらゆる手段を講じていた。「団長! 拙い事になったかも知れません」 特警の詰所の扉が壊れるんじゃないかと言う勢いで、外出していたノエルが飛び込んで来た。「どうした? ノエル」「城下で商会などを当たっていたのですが……」 そう前置きしたノエルは、教会に潜入出来そうな商会を探している最中にとある商人から“モリガンのカタアシ商会を使え”と勧められたと言う。
「了解!」「良いですか、オルタナ。出来る限り後方へ、木を狙って投げなさい」「木を?」「木にぶち当たった方が、衝撃が強く飛散します。君は道の右、私は左を狙って行きますよ」「はい、先生」「スーランッ! 走れ――――っ!」「ハッ!!」 ウケイの合図を皮切りに、スーランが手綱を強く弾いた。 荷馬車の速度が上がり、オルタナは持っていた果実を振りかぶって投げる。 腕力がないから思う程遠くへ飛ばず、ウケイの様に上手く木を狙えない。
「な、何が……」「お前は此処で足を滑らせる」「は?」「知っているか? 下賎の者。危険区域に入って戻らなかった者など、そう珍しくはない」 嘘だろ⁉ この坊ちゃん。 加減ってものを知らないのか。 それとも、妹の為に“噂のお気に入り”が邪魔なのか。 ただ、この森に入って戻らなかった者が居るのは確かだ。 拙い。状況が拙すぎる。 このまま湖に突き落とされでもしたら――――。「あの……」「それと
「はい、先生」「相手が公爵だろうと、侯爵家のご令嬢を敵に回そうと、お前が後悔しない様に生きなさい。私の様になってはいけませんよ」「先生……」「運命とはタイミング。会った初日に痛感する者もいれば、出会って十年目に知る者もいるでしょう。君も、もう出会っているのかもしれませんよ」 深々と沈む森の帳の中に、ウケイの声がひっそりと溶けて行く。 ざわついていた獣達でさえ、空気を読んで身を顰めているかのように静かな夜だった。「ふっ……公爵様が言っていた事は、本当でしたね」







